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口腔疾患と難治性疾患の治療法のための生活習慣矯正法

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口腔疾患と難治性疾患の治療法のための生活習慣矯正法2

閑職ついでに、形態学と機能学を深めるとともに、医学も総まとめにして、考察し、従来の形態的病理学分類では、その他に属する疾患群が、細胞機能の障害による代謝性の疾患群であることにいち早く気付いた。そして代謝の源が細胞小器官の糸粒体(ミトコンドリア)によることも気付いていたから、エネルギー産生の変調がこの一群の疾患の本態であることを察知した。これらの疾患群の特徴は、原因が単純ではなくておびただしい数の多因子の複合によることもすでにわかっていた。口腔の疾患では機能性疾患は、口腔粘膜疾患、歯周病、口内炎、顎関節症、舌痛症、三叉神経痛等があるが、これらは一般に多因子性の疾患と考えるとおさまりが良い。このうち最も複雑雑多な因子でおこるのが歯周病である。これ迄見落とされていたのが、食物咀嚼時の食塊の磨砕時に歯肉部に生じる圧迫力すなわち臼磨時の力学エネルギーである。これらには歯間間隙のフッドインパクションや冠のねじれによる歯根面と歯肉の付着部の剥離、寝相や頬杖等による歯の側方力による歯の動揺、歯冠形態の不適当、口呼吸による歯肉部の乾燥等数え上げればきりがない。これらを一時にすべて制御しなければ治せない。歯列に段差があってもねじれがあっても歯肉は破壊的障害を受ける。目を転じて内科的疾患も殆どすべてが超多因子疾患であり、そのベースにははぼ確実に冷中毒と口呼吸が存在するから、これをまず正さなければならないが、いまだにこれが改められないのだ。
上司の制約が無くなった段階で新しい研究分野をたった一人で開拓するには、今日の医学と生命科学で完璧に見落とされているこの多因子複合体の本体が何であるかを突き止めるだけで良かった。今日の隆盛を極めたとされている分子生物学や自己非自己の免疫学、細分化され尽くした臓器別医学、遺伝子工学、ヒトゲノム計画のどこに盲点があり、これらをどんなにチームで研究しても絶対に究明できそうにない「脊椎動物の進化の学問」を樹立するにはどうすれば良いのかが自ずと解かる道が見えて来たのである。
まず、分子生物学樹立の端緒となったシュレーディンガーをよく研究することが肝要である。次いで進化の学問に深く関係していると確信しているゲーテの形態学の定義とラマルクの形態変容の用不用の法則、個体一代限りの形態変容のきまりのウォルフの法則、ヘッケルの生命発生原則の個体発生と系統発生の関係、三木成夫の生命の形態学の顔と口腔、咽喉と頸部・心肺の鰓腸の変容の法則性の究明と、この背後に潜むこれらに深く関与するあらゆる種類のエネルギーを解析することである。ここで常に問題となるのが、今日の生命科学を惑わすダーウィンの目くらましの進化論の有利不利仮説である。シュレーディンガーから三木成夫に至るまで、ともするとこのダーウィンの目くらましの陥し穴に陥ることが多々あるからである。
 

2018-11-12 12:25:21

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口腔疾患と難治性疾患の治療法のための生活習慣矯正法1

(一)西研はどのようにして出来たか
 
私が東京医科歯科大学の学生だった頃のことだからもう50年以上も前の話である。島峰徹先生の創始されたこの大学が、昔も今の文明国に存在しない口腔科医科大学構想が中途挫折したままに、二つの国難で大きく変折して今日に至っていることを知るに及んで、医者の中の医者島峰流の「口腔科医」になるにはどうすれば良いかを考えて、島峰先生の源流をたどることにしたのである。
明治33年(1900年)に出来た東大歯科学教室の余りの沈滞を見かねた小金井良精(解剖学)が本格的なわが国独自の口腔科医養成大学を作るべく、消化器内科の島峰をベルリン大学医学部歯科学教室に留学させたのである。
8年間の研鑚の後に米国の歯科学校を見学して帰国した島峰はしばらくの間沈滞した東大の歯科学教室に籍をおいてから、大学作りの活動を始められた。先生の旧制の口腔科医科大学構想の大学のカリキュラムは、すでに長尾優先生の「一脇の歯学への道普請」にもおさめられていたので、大学を卒業したら、東大医学部の基礎か歯科口腔科の大学院に進み、島峰流のカリキュラムを実践しようかと考えたのであった。
昭和40年の3月に卒業し、4月から2年間実地歯科治療にたずさわることにした。翌年の秋に東大口腔科の研究生となり、大学院受験の準備をした。その頃には、インターン廃止のための医科大学紛争が東大医と医科歯科大学ではじまっていた。42年4月の試験当日は青年医師連合会シンパの学生が大学院試験をボイコットするためにピケを張っていたが、始まる直前には試験場に通してくれた。試験会場は医学部中央図書館であり、その館物に青医連のたまり場があった。医学部紛争は昭和35年頃にはやった安保騒動(軍国国家による今次大戦敗戦後の後始末の協定改正の紛争)の後に来た経済発展にともなう文化立国建設の第一歩としてのわが伝統的日本医学の復活の目論みとして、米国の占領によるアメリカ医学の象徴のインターン制度の廃止を当面の目標として、その後に無給医の廃止運動へと発展したのであった。
院の試験をパスしてから大学院の研修コースを可及的に最大限習得し、病棟にて顎口腔疾患に関する全科の診療を経験してから二年目に基礎医学の生化学教室で研究生活に入って間もなく医学部紛争が大学全体に波及して入学試験も中止になった。若手研究者の会で活躍した後に研究生活に復帰して、ミトコンドリアの突然変異発生の原因究明のための分子生物学研究で学位を取得した。この時に成功した原因の究明が、40年後の難治性疾患の謎の解明と治療に役立つことになるのである。大学院を修了した頃に、当時極めて有能に見えた先輩Y氏にいたく気に入られて、重用されて従っていたが、色々な点でY氏を凌駕することが多くなると、当然疎んぜられるようになった。30歳で病棟医長となりその後6年間分院を任されて大活躍したが、本院に戻ってからは、昔の私に代る取り巻きの女医がでんと控えていてその後4年間も乾された。気が付くともう40歳を過ぎていたが、ペーパーは学位論文の「ミトコンドリアの突然変異究明のための分子生物学研究」の三編のみとなり、若気の至りで我が指導者選びに失敗したことに気付いたのが遅すぎてすでに後の祭りであった。医局生活では研究も手術も教育も殆ど出来ず、そのうえ10才年下の後輩の下につけられて、外来の初診とやさしい歯科口腔診療だけをさせられた。島峰流の口腔科医の学者生活を考えていたのに、とんだところに踏み迷って困惑したままに夏休みを迎えたのが1980年(昭和55年)頃であった。その頃、千葉の佐原に行ったところ、伊能忠敬の記念館があり、そこでにわかに伊能流に生きるすべを考えた。つまり閑職をこととして、これから準備して50歳を目途として研究生活に復帰すべく読書をはじめたのであった。隠居してからも天文学と測量をはじめた忠敬をはじめとして、夢を掘り当てたシュリーマン、床屋医者からモンペリエ大学の初代外科教授となったパレ、麻酔により「外科の夜明け」を切り開いたともに歯科医のウェルズ、モートンを研究した。またペリーの圧力で大騒動のすえに幕府が潰れた結果、日本国の体制も刷新された明治維新では、米国は自国の市民戦争(南北戦争)のために日本攻略では、ヨーロッパの英・仏・独に完全に後れをとったのであった。南北戦のさなかに外科と内科を担当した軍医エリオットがペンシルバニア歯科学校を卒業して歯科医となって日本に渡来し歯科医学とアメリカ文化(維新の頃の留学生による)によって日本を内面指導したのである。
 

2018-10-30 14:57:17

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